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ばあちゃんが死んだ。

2/15は暖かいまるで春のような日だった。
本当に春まではもう少しだったんだ。


父方のじいちゃんばあちゃん(埼玉のじいちゃんばあちゃん)は3年前に死んだ。
母方のじいちゃんばあちゃん(名張のじいちゃんばあちゃん)はまだ健在だった。

母方のばあちゃん家は三重県は名張市にある。
いつかここ「日々徒然」でも書いたが、
ばあちゃん家がある名張は本当にすてきな場所だ。

ラオスにバンビエンという街がある。
5年まえに訪れたときにあっという間に好きになった大切な場所。
考えてみるとそこは名張に似ていた。
http://www0.yapeus.com/users/four/


僕は小学校の4年まで大阪に住んでいた。
大阪から名張は近い。
車で2時間くらいだ。
だから休みのたびに僕たち一家は名張へ行った。

名張駅から車で15分ほど。
実はDODOのTHYMEまで車で30分ほど。
でもそのわずかな時間で景色は一変する。

ばあちゃん家の集落は山に囲まれている。
家の前には「名張川」が流れていて、
名張川は一級河川といわれるだけあり、
とてつもなくキレイで魚、特に鮎が多く住んでいた。

家の前には台風の増水ですぐに流れてしまう小さな橋があり、
僕と弟(たけし)は毎日そこから飛び込んで遊んだ。
じいちゃんとオヤジと一緒に。

ばあちゃんはいつもそんな僕たちを送って、
帰ると笑って出迎えてくれた。

うちの母親もそうだが、コテコテの関西の女の人で
よくしゃべった。

「あれこわい」

というのが口癖だった。

たけしが言う。
「おれ、今日は10回も橋からとんでんで!」
「あれこわい」

僕が言う。
「おれはさかなを5匹もつったわ!」
「あれこわい」

たけしは玉子焼きが好きで、
特にばあちゃんの作る厚い玉子焼きが大好きだった。

ある日母親がばあちゃんにそれを言ってから、
僕たちが遊びに行くと山のような玉子焼きが食事に必ず出るようになった。

40代で山の仕事中に滑り落ちたばあちゃん。
「腰が痛い、腰が痛い」
と言い、じいちゃんと町の医者に言った。

医者は「たいしたことありませんよ」
と診察したので、じいちゃんとばあちゃんはそのまま帰った。
でも痛みは全然ひかなかった。

痛みはひかないけど、医者が言うなら間違いない。
悲惨な戦争で「我慢」になれたばあちゃんはずっと痛いのを我慢した。

それでも痛みがひかないから、大きな病院に行った。
行った時には手遅れだった。
僕の記憶にあるばあちゃんはいつも痛そうに腰を丸めて歩いていた。

父親の仕事の都合で僕が小学校5年になると
僕たちは大阪から埼玉へ引っ越した。

僕は反抗期になり、親と出歩くのが嫌になり、
じいちゃん家へも行かなくなった。

高校に入り、バンドをはじめ、
大学時代は休みのたびに海外へ旅行した。
そしてそこで人との出会いの素晴らしさや、
素朴な人のやさしさを感じ、なんだか満足していた。

でも本当は海外に行かなくても、
そんなものは、例えば名張で十分感じられたことなんだと思う。

僕がそんなことをしている間、
ばあちゃんは体調を壊し、寝たきりになった。

---
昨年の8月、名張へ帰った。
野澤くんと一緒にばあちゃん家に泊まり、ビールを飲み、川で泳いだ。

野澤くんと別れた翌日、ぼくはじいちゃんと大阪のおじさんと
入院しているばあちゃんの病院にお見舞いに行った。

ばあちゃんは見る影もなくやせていた。

僕が入るとじいちゃんに聞くのだ。
「この青年さんはだれや?」
と。

すでに薬と老衰、長い寝たきり生活でばあちゃんの記憶は朦朧としている。
そしてときどき襲う激痛。

そんななかじいちゃんが言った。
「なんや忘れてしもて、ひろきやろ」

ばあちゃんは泣いた。

そして
「手を触らせてくれ」
と言った。

僕はばあちゃんと手をつないだ。
本当に驚くほど小さく、皮と骨だけの手だった。
そしてばあちゃんはまた泣いた。

「よぉ大きくなった、よぉ大きくなった」
「たけしは元気か?ひろきは今なにしてる?」

僕は答える。
「東京で働いてるで」
「あれこわい」

ばあちゃんは何度も同じことを聞き、
何度も「大きくなった」といい、
そして何度も泣いた。

20~30分ほどして看護婦さんがやってきた。
食事の時間らしい。
大阪のおじちゃんは寝たきりの老人の食事風景を見せたくなかったのだろう。
「ひろき、そろそろ行こか」
といい、僕は病院をでた。

これが僕がばあちゃんを見た最後だ。


帰りの車でおじさんは言った。
あんなにしゃべるのはめずらしいし、記憶がしっかりしているのもめずらしい。
普段はお前のことをまだ小学生だと思ってるみたいやぞ、
と。

じいちゃん家に帰り、こたつのテーブルでビールを飲んでテレビを見た。
ふと目を移すとテレビの後ろにカレンダーがあった。

それは僕とたけしと母親が写っている写真を
オヤジがカレンダーにしたものだった。

僕は確か小学校3年、たけしは幼稚園、母親もまだ若い。
もう20年くらい前に家族で尾瀬に行ったときの写真を
カレンダーにしたものだった。

写真は色あせ、少し茶色くなっていて、
ぼくもたけしもまだまだ幼く、こどもだった。
このカレンダーは多分、20年間ずっとここにかかっていたんだ。

それを見て、涙がでた。


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2/15は暖かいまるで春のような日だった。
本当に春まではもう少しだったんだ。

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