05/07/2015 振り返りと近況20150507 *山岡書いた
**
少し時間が経ってしまいましたが、無事に4/4のFOUR TOMORROW企画"Homewardbound #3"が終了しました。
当日遊びに来てくれた皆さん、本当にありがとうございました。
少し時間を置きながら、戻った日常の中で時々思い返して、自分の考えを整理してました。
改めて、自分たちにとっての原点のような1日だった、と感じてます。
これまでもFOUR TOMORROWの活動を続けてきた中で、
要所要所での大切な決断の後押しは、「時間としては決して長くない君との直接のやり取り」、だったと理解しています。
そんな瞬間がいくつもあって、背中を押された「やっぱり自分たちはこっちに行こう」
そんなことを感じた1日でした。
何人かの人と話をして、ブログで続けたバンド紹介の話をほめてもらった。
企画をするにあたって最初に書いた通り「自分たちで企画をする」ということはそういうことなんだと思ってます。
で、それをきちんと「表現」したい。
流れる大きな川に投げ入れてしまうのではなく、ある一定の文字数できちんと表現しようとするとけっこうな時間がかかる。
例えば僕はわしとマチを担当したのだけれど、かれこれ2-3日は彼らのことをずっと考えて、音源を改めて聞いて、
文字におこして、のぎちゃんを思い出して、消して、また文字におこした。
そうしていくうちに、当日がどんどん楽しみになった。
メンバーがあげてくる文章もとても楽しみだったし、その文章を読んで改めて音源を聞きなおして、また当日が楽しみになった。
初めて企画をした時の気持ちはそんなんだったんだと思う。
また次の企画がとても楽しみです。
Homewardboundの和訳は「早く家に帰りたい」
***
次のライブまであっという間に1ヶ月を切ってしまいました。
4/4は遅くまで打ち上げで飲んで酔っ払って帰ったので、間違えてなおきのギターを実家に持って帰ってしまった。
あいつはギターの練習をしてるだろうか。
6月はライブができそうだったので、こういう状態になるのがわかった瞬間から
「ライブやりたいときは手伝うので、気にせず言ってください!」
と言ってくれていたdoes it floatに企画をお願いしました。
いや、そもそもここ3-4年、彼らは僕らの周りのベストバンドだと僕は個人的に思っている。
あの疾走感にあの展開とコーラスワークを混ぜられたら最高に決まっている。
そんなわけで彼らを見ながらビールを飲むと、足で刻むリズムがとても激しくなってしまう。
彼らとの出会いは
と調子よく書き始めて、これはまた次の機会にしよう、なんてことを思ったのでした。
****
連休を利用してベトナムのホーチミンに行ってきました。
ホーチミンに行ったのは3回目です。
初めて訪れたのは1人でインドシナ半島をぐるっと回った2001年。
今でもよく覚えているけれど、ホーチミンのゲストハウスをチェックアウトしてカンボジアのプノンペンへ向かうバスを待ちながら
ふと薄暗いゲストハウスのロビーのテレビを見たら、はるか遠いアメリカで飛行機が高層ビルに突っ込んでいた。
9月11日だった。
2回目は野澤先生(アルバムの解説を読んでください)といっしょに訪れた2009年夏。
もう6年も前なのだけれど、ファーストアルバムはリリースされていた。
たくさんの酒を飲みながらずいぶんたくさんの話をした。
主に不明確な未来に対する、グラッグラの僕たちの針路とそこに至った過程と具体的経験の話だった。
そして今回。
6年ぶりにホーチミンに行って感じたことは、ベトナムは変わったけどそれ以上に自分が変わっている、ということ。
息子と嫁が一緒だし、お金の使い方も全然違う。
でもたぶん根本の部分ではかわっていないのだな、と思う。
街をうろつきながらいろいろなことを思い出す。
一緒のゲストハウスだったあのかわいい子は幸せに過ごしているだろうか?
ラオスのバンビエンからベトナムを一緒に南下した二人は元気にしているだろうか?
彼らはたぶんもう40歳を越えていると思う。
16年前僕はホーチミンで小さなギターを買ったんだけど、あのギター屋の女の子は元気だろうか?
僕が訪れた数日前の4/30はベトナム戦争の終戦記念日=ベトナムにとっての開放記念日だった。
今年はちょうど40周年、いまだに社会主義のベトナムの街はそこらじゅうにプロパガンダのポスターがあふれていた。
僕が初めて訪ねた年の20年くらい前は、まだ戦争をしていたんだな。
まだジョンレノンが生きていた頃。
そんな街を息子が駆けまわっていた。
少し時間が経ってしまいましたが、無事に4/4のFOUR TOMORROW企画"Homewardbound #3"が終了しました。
当日遊びに来てくれた皆さん、本当にありがとうございました。
少し時間を置きながら、戻った日常の中で時々思い返して、自分の考えを整理してました。
改めて、自分たちにとっての原点のような1日だった、と感じてます。
これまでもFOUR TOMORROWの活動を続けてきた中で、
要所要所での大切な決断の後押しは、「時間としては決して長くない君との直接のやり取り」、だったと理解しています。
そんな瞬間がいくつもあって、背中を押された「やっぱり自分たちはこっちに行こう」
そんなことを感じた1日でした。
何人かの人と話をして、ブログで続けたバンド紹介の話をほめてもらった。
企画をするにあたって最初に書いた通り「自分たちで企画をする」ということはそういうことなんだと思ってます。
で、それをきちんと「表現」したい。
流れる大きな川に投げ入れてしまうのではなく、ある一定の文字数できちんと表現しようとするとけっこうな時間がかかる。
例えば僕はわしとマチを担当したのだけれど、かれこれ2-3日は彼らのことをずっと考えて、音源を改めて聞いて、
文字におこして、のぎちゃんを思い出して、消して、また文字におこした。
そうしていくうちに、当日がどんどん楽しみになった。
メンバーがあげてくる文章もとても楽しみだったし、その文章を読んで改めて音源を聞きなおして、また当日が楽しみになった。
初めて企画をした時の気持ちはそんなんだったんだと思う。
また次の企画がとても楽しみです。
Homewardboundの和訳は「早く家に帰りたい」
***
次のライブまであっという間に1ヶ月を切ってしまいました。
4/4は遅くまで打ち上げで飲んで酔っ払って帰ったので、間違えてなおきのギターを実家に持って帰ってしまった。
あいつはギターの練習をしてるだろうか。
6月はライブができそうだったので、こういう状態になるのがわかった瞬間から
「ライブやりたいときは手伝うので、気にせず言ってください!」
と言ってくれていたdoes it floatに企画をお願いしました。
いや、そもそもここ3-4年、彼らは僕らの周りのベストバンドだと僕は個人的に思っている。
あの疾走感にあの展開とコーラスワークを混ぜられたら最高に決まっている。
そんなわけで彼らを見ながらビールを飲むと、足で刻むリズムがとても激しくなってしまう。
彼らとの出会いは
と調子よく書き始めて、これはまた次の機会にしよう、なんてことを思ったのでした。
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連休を利用してベトナムのホーチミンに行ってきました。
ホーチミンに行ったのは3回目です。
初めて訪れたのは1人でインドシナ半島をぐるっと回った2001年。
今でもよく覚えているけれど、ホーチミンのゲストハウスをチェックアウトしてカンボジアのプノンペンへ向かうバスを待ちながら
ふと薄暗いゲストハウスのロビーのテレビを見たら、はるか遠いアメリカで飛行機が高層ビルに突っ込んでいた。
9月11日だった。
2回目は野澤先生(アルバムの解説を読んでください)といっしょに訪れた2009年夏。
もう6年も前なのだけれど、ファーストアルバムはリリースされていた。
たくさんの酒を飲みながらずいぶんたくさんの話をした。
主に不明確な未来に対する、グラッグラの僕たちの針路とそこに至った過程と具体的経験の話だった。
そして今回。
6年ぶりにホーチミンに行って感じたことは、ベトナムは変わったけどそれ以上に自分が変わっている、ということ。
息子と嫁が一緒だし、お金の使い方も全然違う。
でもたぶん根本の部分ではかわっていないのだな、と思う。
街をうろつきながらいろいろなことを思い出す。
一緒のゲストハウスだったあのかわいい子は幸せに過ごしているだろうか?
ラオスのバンビエンからベトナムを一緒に南下した二人は元気にしているだろうか?
彼らはたぶんもう40歳を越えていると思う。
16年前僕はホーチミンで小さなギターを買ったんだけど、あのギター屋の女の子は元気だろうか?
僕が訪れた数日前の4/30はベトナム戦争の終戦記念日=ベトナムにとっての開放記念日だった。
今年はちょうど40周年、いまだに社会主義のベトナムの街はそこらじゅうにプロパガンダのポスターがあふれていた。
僕が初めて訪ねた年の20年くらい前は、まだ戦争をしていたんだな。
まだジョンレノンが生きていた頃。
そんな街を息子が駆けまわっていた。
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